争いとはいつだって、虚しさと虚しさの衝突だ。

平成最後の終戦記念日。戦後生まれは全人口の8割を超えるらしい。

戦時中の体験はいずれ歴史の教科書だけが語るようになってくる。当然体験は言語や写真だけでは伝えきれない。戦争を超えた人達の感覚や皺に刻まれた厚み、平和という言葉の立体感は、どう伝承できるだろうか。

そしてぼくらの今、文化や歴史は後世にどう残されていくのだろう。

実際のところ”忘却”は個人の幸福には資すると思う。けど、人類の平和と安寧のためには忘却しないことが何より大事だ。健全な批判精神を持たざる大衆は、巨大な力学のるつぼに飲まれていく。

今日は「平和」が飛び交っている。

先日、国連大学で開催された平和を考えるイベントに登壇させていただき、自分の考える平和についてスピーチをさせていただいたので、その内容も含め、平和とはどのようなものであるのか、考えてみようと思う。

世の中には多くの平和がある。 

一昨年ノーベル平和賞を受賞したサントス大統領は、半世紀に及ぶコロンビアの内戦の和平交渉に尽力したことで受賞した。

その前の前くらいのマララさんは女性の教育の必要性や平等を訴える運動をしていて受賞した。   

 

1912年、ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバー博士は、戦時中毒ガス兵器の開発に尽力した。自国の兵士がこれ以上苦しまないために、毒ガスをつくり早く戦争を終わらせようとした。  

ミサイルの雨が民家に降り注ぐ大地の延長線上では「今日も平和だね」って今流行りの戦争のスマホゲームで遊ぶ女子高生たちの声がする。

命からがら叫んだ断末魔より、彼女らの引き笑いのほうが鮮明に聞こえる国の1つがここ日本。

辞書で平和を調べると対義語として戦争という言葉がでてきた。グローバル経済の力学と核の抑止のお陰で、侵略が無意味となったのもあり、日本は直接的には戦争をしていないので平和みたいだ。警察庁の発表だけでも昨年の自殺者数は2万人を超えた。

「平和」はPeaceが訳された概念なので、Peaceの語源を調べてみるとラテン語のPaxから来ているそうで、これは「武力による平和」を意味するそう。平和とはそもそも、矛盾にも近い複雑性を孕んでいる。

平和の対象というとしばしば世界とされるが、その世界は、そもそも存在しないかもしれない。ただしぼくらがあると思えば確かにここにあるだろう。個人とされている意識の範疇だけでも、家族とされる範疇まででも、人間と定義される範疇、あまつさえ植物や動物、機械、宇宙、見えないものに至るまででも、どこまででも世界として意識を拡張できるし、しなくてもいいことになっている。

ぼくらは誰だって今という静止画の連続を時間という動画にして、人生と名付け都合のいいように編集する映画監督で、本当は今も過去も未来もないことを物理学は語っているけど、せめて今だけは主導権が自分の意識にあるんだと、信じることで必死にアイデンティティを保っているぼくらは、幸福のためにいつだって忘却する、中途半端な真理だけを求めている。

少なくともテロリスト集団はすべて悪とみなして、寄ってたかって正義の名の下に殺戮して訪れるほど単純に平和は成立しない。という意識すらも疑い続けて、わからなさを更新しつづけた先にだけ、平和に近い状態があると感じている。(という意識も疑う)

近代より国家の成長は個の幻想を昂ぶらせ、科学は生の無意味を証明し続ける。自由の名の下に放し飼いされたぼくらは、ありもしない自分を探し、正しさらしきものに縋り付く。社会道徳、世界平和、国際協力、虚しくて仕方がないこんな人生にかける、癒しの魔法を正義と呼ぶ。

争いとはいつだって、虚しさと虚しさの衝突だ。

このまま進めば平和な世界はやがて訪れるだろう。インターネットと脳が接続され、記憶がクラウド管理され、気づけば一は全になり、全は一になり、意識が後悔を生成する間も無くホモ・サピエンスは進化という名の絶滅をしている。

平和の複雑性に耐え切ってぼくらは歌を歌えるか。

川の流れのような人生に穏やかに心を保てるか。

個人を超え、全体性を自分のように扱えるか。

ぼくらは世界(自分)に何を望むのか。

平成(”平”和を達”成”する)という祈りの次の時代には

そんな問いが必要不可欠に思えるのです。