今年1年を振り返る前に。

忘年会の季節がやってきた。

ぼくらは忘年をするまでもなく1年間のことなんて9割以上忘れてるし、そもそも365日のうち意識を持って過ごしている時間なんて半分にも満たない。途切れ途切れの意識記憶の断片を左脳にいる”物語る自分”がいいようにストーリーにして、振り返る瞬間×その1年のピークの瞬間の数値の平均値を1年の評価として下す。(今年の1年は最悪だったな〜って人は自然に囲まれてリラックスした環境で美味しいご飯とお酒でも飲み食いした後にもう1度振り返ってみれば少しは良い評価になるかも。。)

最近は死と記憶についてよく考える。(そしてそんなツイートばかりしていたらフォロワーが減った)

人はどうして死を恐れるのだろうって考えたとき、肉体(経験する自己)の消滅、臨床死より記憶(物語る自己)の消滅から連想される恐れの方が強いように思った。自己(という概念)がなかったことになるのが怖いっぽい。

自己という概念は社会的なものであって、記憶の積み重ねがアイデンティティ(主観幻想)をつくっていくから、幼児期は死の恐れが低いし、高齢になって忘却していくと死を受け入れていくのかもしれない。

自己という概念はその時代の社会やイデオロギーにより変化していて、例えば江戸時代。明確な身分制度の上では自己探求する必要がなかったし、寿命も農民なら平均で30歳にもいかないほど、大抵が村で生まれ村で死ぬなかで個人という意識、死への恐れはもっと希薄だったように思える。今よりも日常的というか。

グローバルな自由市場は豊かな技術開発と人生の多様な選択肢を与えるが、選択肢が増えるほど選んだ選択への納得度が減るという心理もある。そして「あなたは何者か」と差し迫られ、自己を見繕い「やりたいこと全部やる」とか「幸せになるために生きてる」とか恐れを払うように個人を強化して、生き急ぐ。

面白いのは科学と逆行するような形で年々死後の世界を信じる人達が増えてきているらしい。多分個人という幻想が強まると宗教が流行る。

しかし死も記憶も事後で認識することができないように、怖さも事が起こるまでしかないし、逆に事が起こるまではずっと不安や恐れが残る(仏陀にならなければ)。一方でその恐れが行動力となり、戦争の時代なんかは急激に技術が発達してきた。この速度で歩みを進めつつ個の安寧を営むのであれば、精神は無我となり解脱しつつ、肉体は自我を持ち恐れと共に生産し保全する、パラレルソウルなコントロールが必要かも、という難しさがある。

記憶や自己はそれ自体が存在証明できない矛盾を抱えているから(思い出せる範疇しか記憶として扱えない/自分を他者意識から観察できない)かなり怪しい代物なのに、それが代え難く大事なものだと思われているし、自分もそう思ってしまっている。

個人とは単に意識の流動で、無為自然的な世界線に委ねてしまえば全ては「ただ、在る」という地平にしか存在せず、時も空間も空虚なものだけど、それでもミームは後退を許さず文明はいよいよ永遠の身体(トランスヒューマニズム)という生物的転換点まで進もうとしている。

永遠の命が手に入った人類は無限の生に絶望し翻って死を望み始める、というSF的な仮説がよくあるけど、実際はそれほど相対的ではないと思っていて、大切な人の死も文化的な循環性も人類は忘却という機能により消し去って、また同じ事柄に感動し続けられるはず。

今ある肉体が感じる新しさが本当は1万回目のことだとしても誰もそれを認知はできない。

忘却とは切ないものだ、切なさとは悲しみと同時に言葉にしづらい喜びにも似たポジティブな感情も宿っている。捉えきれない概念を個人という物語にして、尊び、記憶しながら忘却し、今在る気分や状態が過去を創作し、創作の連なりが個を強化し、恐れ、慈しみ、やがてやってくる死を、切なく感じる。人生は大変に味わい深い。

毎日生まれて死ぬ37兆個の流動的な細胞の総体として身体を持ち、一切固有のものがない数々の細胞からの電位の流動を意識(物語る自己)として見繕う”あなた”という瞬間的な概念が、共同主観幻想としての時間、一年を振り返った際に生じる気分はいかがでしょうか。(ぼくは今年もなかなかいい感じでした (※お風呂あがり)) 

 

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