みんなで逃げればそれが革命になる

”「負けないこと、投げださないこと、逃げださないこと、信じ抜くこと、駄目になりそうなときそれが一番大事。」

日本には諦めないことを推奨する多くの素敵な歌がある。

石の上にも3年、そうだ、努力とはそれ自体が美しいものなのだ。

そんな美学に違和感を持ったのはおよそ生後直後だった。

生まれるまでにどれだけの忍耐の物語があっただろうか。”

という記事を書いたのが約2年半前。僕は今「逃げBar White Out」という店舗を立ち上げようとしている。オープンまであと5日。全然準備が終わってないけど、時間からは逃げられない。

とにかくやることがいっぱいで「逃げBarのオープンから逃げてしまいたい!」と悩んで3秒。よく考えると妥協することと逃げることは違うなと思った。自分にとって一番楽な状態はバーを無事予定日にオープンさせること、と考えると前進だけが逃げ道だった。

そういう前向きな逃げもある。そもそも逃げることはそんなに後ろ向きなことだっけ?そんなことを考えながらオープン前に改めて「逃げる」ってどういうことなのだろうかと考え、キーボードを叩くことにした。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?─経営における「アート」と「サイエンス」』の著者で独立研究家の山口周さんに店舗立ち上げのために実施しているクラウドファンディングのリンクをシェアしていただき、以下のようなツイートが続いた。

なるほど。。しかしなぜ「逃げられない」なんてことがあるのだろう。山口さんはビジネスの面から逃げることの責任をツイートしているが、そもそも逃げない美徳、逃げられない雰囲気がまかり通ってる生物を人間の他に知らない。生物は逃げて時間を作り、変化して繁栄してきたのに。

「逃げること」が「自らを守ること」なのであれば、自らを脅かす何かから逃げることは、社会や種を守ることに等しいはず。けど、逃げることを否定する人達は「社会人としての責任感がない」「社会のことを考えろ」と言う。耐え抜くことでしか存在できない社会を守ることに、一体何の価値があるのだろう。

逃げることは健全な生命活動だと思う。けれど「逃げたいけど逃げられない」という人たちがこの国にはごまんと居る。そして仕方なく「死」に逃げてしまう人たちも。


逃げることと責任

逃げること、ひいては自由には責任が伴う。というか、あらゆる事象はあらゆる事象と関係する。自分の表情は他者の心に関係し、他者の心は購買行動に関係し、購買は市場に、市場は国力に、環境に、そしてそれらは自らに関係する。

例えばある組織から1人が逃げ、残る人たちがその分の作業を強いられたとする。ここで悪いのは逃げた人?それとも逃げたくなるような組織?善悪二元論で語りたくはないけれど、世の中が良い感じに変わっていくにはやはり根源を見つめないといけないのだとは思う。

しかし自分に関わる他者たちへ迷惑がかかるんじゃないかと考えることは、逃げを妨げる大きな1つの要因だろう。逃げることで周囲に迷惑が被る理論を拡張して「みんな逃げたらごみ収集する人いなくなるじゃないか」とか「工場労働者がいなくなる」とか言われるかもしれないけど、別にいなくなっていいと思う。

いなくなって且つ、それが必要な課題であるならばそれ用のロボットなり新たなシステムなりを生産せざるを得ないし、国も補助をせざるを得なくなる。それに、例に出したような職業は世間的には逃げたいような労働に思えるかもしれないけど、誇りを持ってそれをしている人たちが当然いるわけで、逃げることはパズルのピースをとることじゃなくて、新たなパズルにピースをはめ込んで完成させることなんだと思う。

人は死んだら星になるというけれど、星の視点から自らを見つめて、逃げたいと思うならなんでも逃げよう。残された人に迷惑がかかると思うだろうけど、あなたが最適な場所にいてくれないことの方が世界の損害だ。もしそういう場所が見つからないのなら「逃げbar」で責任持って一緒に考える。

目を逸らすだけじゃ逃げたことにはならない

ぼくは仕事として音楽フェスのプロデューサーをしているけど、エンターテイメントは「日常からの逃避行」という役割も持つ。忙しない毎日の息抜きやストレス解消に役立てることはとても誇らしいことだけど、目を逸らすだけじゃ逃げたことにはならない。

戦うことを否定したいわけではないけれど、戦いのさなかに休憩を如何に作るかよりも、戦いを如何に終結させるか、を考えたいタイプなので、一時的に逃げて戦いに備えるよりも、逃げ切りたい。

そんなこともあって自分のつくるフェスはフェス=世界としてオルタナティブな異世界を仮装体験するコンセプトで、どんな世界に逃げ切る舵をとるかをエンターテイメント的に仮想実験している。まぁその話は長くなるので詳しくはこちらをご参照ください。

昨今のインフルエンサー界隈では「とりあえず会社辞めちゃいなよ」と言うけれど、それは悪魔の囁きにも聞こえてしまう。誰もがあなたみたいにはなれないし、とりあえず辛いから逃げたいけどその先の逃げ場がないからここにいるしかないんだよ、と。

当たり前だけど逃げること以上に逃げ切ることは難しい。

人生は行き当たりバッチリなのかもしれないが、不要な苦しみを避けるためには戦略が必要だ。それは次の場を事前に確保することかもしれないし、暮らしや経済などもっと大きな概念を自分の中で変えることかもしれない。

僕らには個体差があり、向き不向きやキャラクターがあり、過去があるからそれぞれに役割がある。だから逃げ場が存在しない人はこの世にいない。

資本主義に絶望したとしても、そうじゃないイデオロギーで暮らすコミュニティがある。人間に絶望したとしても、人と交わらず生きる暮らし方がある。それに、気分1つで見る景色が変わるように排気ガスで覆われた心が晴れれば、今いる場所も悪くないかもしれない。

逃げ切るためには、外にも内にも選択肢を広くすることが必要だ。

そのためにはネットサーフィンでもいいし、新しいコミュニティに入ってみるでもいいけど、飲食という生活導線でそういう体験ができるような場が町中にあればいいなと思い「逃げBar White Out」という場をつくった。

ゆるやかに環世界を拡げる異場所

フィルターバブルという言葉がある。インターネットやアプリに潜むAI、機械学習プログラムは僕らの行動を学習し、自動でオススメを教えてくれる。それはまさに自らの好みのものだからそれを選ぶと更に学習し、いつの間にか好きなものだけがある世界が各人のスマホのなかで完成する。興味感心領域外のアトランダムな情報が希薄になることで、世界は心地よくも狭くなっていくその課題をフィルターバブルと呼ぶ。

2018年、未成年の自殺者数が78年以降最悪の数値となった。

彼らはまさにフィルターバブル世代。「死」もまた1つの選択肢であることは否定できないけど、最後の選択をする前にとりあえず試してみようと思える逃げ場はなかったのだろうか。

思えば自分もそんな場所を必要としていた。でもそんな概念自体なかった。インターネット上に無数の場が広がっているとはいえ、リアルな場があることの安心感にはまだ代え難い。例えば世間一般の常識とは異なる経済、異なる空間、異なる食事、様々な異なりが混在する異場所が、駅前徒歩1分の路面店にカフェ&バーのような形態であったらどうだろう。

ただ違和感を持つだけかもしれないし、新しい概念の発見があるかもしれない、何かを期待してくる人たちが往き交い救われるようなご縁が結ばれるかもしれない、まだオープンもできていないので想像ばかりが膨らんでいるけど、1つだけ信じたいと思うことは音楽の力。

「逃げBar White Out」ではお酒以外のもう1つのアガる選択肢として「エリクサー」というカカオやガラナなどを使ったナチュラルエナジードリンクのラインナップを開発していて、サウンドはサイレントディスコシステムを使うため無音、そして真っ白な空間でデイイベント、ということで未成年でも誰でもこれるDJバーとしての機能も持つ。

こんなこというと誤解が生まれそうだけど要は、狂える。

狂うことは周囲の意識から外れること。そういう体験は力強く「逃げ」の後押しをしてくれる。他者との違いが自分らしさを規定するように、異場所はいま自分がどんな場所にいるのかを感じさせてくれる。壊して、より深く繋げる、それが音楽の1つの機能で逃げの動力にもなっていきます。

前に進んでも後ろに進んでも、どれだけ登ってどれだけ落ちたって、世界は拡張されていく。どこに進むべきかなんて、人類何万年の歴史の中で誰1人証明できていないし、きっと分からない。諸行無常、盛者必衰の理の中でただただ動き続けること、バイオリズムそのものが命を規定し、世界を世界たらしめている。

逃げることは恥でもなければ後退でもない、退化でなければ負けでもない。僕らを僕らたらしめる行為として尊重して、普通に選択できる選択肢としてパブリックとリレーションしていける場をつくれればと思う。

逃げBar White Out https://www.nigebar.com/